100年前の資生堂にみる デザインの実践と思想


先日、資生堂ギャラリーで資生堂初代社長の福原信三のデザインの実践や、残した言葉からこれからのデザインのあり方語るトークセションが開催された。
登壇者は、資生堂の信藤洋二さんとモバイルクルーズの安西洋之さんと僕だった。

このエントリーでは、そこでお話した内容や、資生堂さんとのあるプロジェクトの支援を通じて、僕が学んだ資生堂のデザインの思想と文化について、書き残しておこうと思う。

100年前のデザイン経営
福原信三の思想と実践

最近、経産省・特許庁からデザイン経営宣言が公開され、経営の上流からデザインを設計するチーフデザインオフィサー(CDO)の設置が推奨されたり、ビジネス、テクノロジー、デザイン(BTD)関係深化が推奨されるなど、経営とデザインの関係を再考するトレンドが生まれている。

ちなみに、今から17年前、僕は武蔵野美術大学に在学中に「これからはデザインとビジネスとテクノロジーの融合した会社が必要だ!」と考え、東工大でプログラミングを学んでいるエンジニア、東大の技術経営を学んでいるビジネスマンと合流し大学初ベンチャー(東工大初ベンチャー)をスタートさせた。そういった体験からも、このムーブメントがどうなっていくのかとても気になっている。

このデザイン経営の源流ともいうべきものが、いや、デザイン経営と名付けて良いかどうかわからないような次元の思想と実践が、この日本で100年前に始まっていた。

資生堂初代社長の福原信三は、当時薬局であった資生堂の創業者・福原有信の息子だ。アメリカで薬学の修士を取得し、経営に携わった。そして、資生堂を本格的に化粧品事業へ移行させ、1916年には他の企業にはない意匠部という組織を作り、優秀な作家や芸術家を招き入れ先鋭的な商品・広告作りをした。

ちなみに、世界初のトータルデザインと言われる、ドイツAEGのデザインは1907年だ。建築家でもあったペーターベーレンスはAEGのデザイン顧問として、ロゴマークからプロダクトデザイン、さらには工場や労働者の住環境までをデザインした。福原信三はそれから10年も経たずしてデザイン組織を「社内」に作り上げてしまっていたのだ。

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福原信三のデザイン思想と実践

福原は、薬学にも精通しながら、芸術にも精通していた。写真家として数多くの作品を残している上に、意匠部を作る1年前には福原信三自身が椿のロゴマークを作成している。現在用いられているマークとほぼ一緒の、唐草をモチーフとした美しい形態だ。

そのため、福原信三の考えるデザイン思想とは、単に売り上げに寄与するものとして捉えておらず、社会的なものであった。伊藤俊治氏がこのように述べている。

(福原が)意匠部を広告部としなかったのは、当時の広告の表層性や誇大性に反発していたからと言われています。(中略)人間が抱え込んでいる困難な問題をクリアにし、鮮明な形で伝えてゆくことがデザインであり、モノを売ることのみを企む企業はやがて相手にされなくなり、滅亡していくだろうとも彼は指摘しています。

 伊藤俊治「資生堂、そのデザインのちから」 おいでるみん, P116

なんという力強いメッセージ… 自らが経営者であり、芸術家でもなければ、ここまで強い表現をすることができなかったように思う。

1917年頃には現在でも使用されているオリジナル書体「資生堂書体」の原型を意匠部のメンバーでもあり画家の小村雪岱が作成している。今でも資生堂書体はデザイナーが入社時に手書きで描く訓練をしており、言語化された知識だけでなく身体知としても定着する伝統を残している。

対話と共同体の形成の場としてのギャラリー

トークセッションの行われた資生堂ギャラリーは、今から約100年前に福原信三によって作られた。現存する画廊としては日本最古だそうだ。画廊は、作家の作品を展示する場として機能していたが、その展示の企画には福原信三も深く関与していたようだ。

福原信三が持ち込まれる展覧会を審査し、時には自ら企画していたということである。(中略)彼のブレーンとなる人たちのネットワークが形成されていったのである

富山秀男(1995)「資生堂ギャラリー七十五年史」p8 監修者序

今でいうコミュニティーのようなものを形成する場としてギャラリーが機能していたことが伺える。また、武田砂鉄さんナカムラクニオさん、ギャラリー学芸員の伊藤賢一朗さんらの対談で語られたギャラリーの解釈も興味深い。

資生堂ギャラリーがいかに「サロン」として機能していたかがわかりました。なぜかというと、ここはありとあらゆるジャンルの画家たちの展覧会をやってるんですよね。

武田砂鉄とナカムラクニオが語る、資生堂ギャラリー100年の歴史とこれから

“資生堂ギャラリーってすごいんですよ。いまは評価されているけれど、その当時はまだ全然評価されていなかった作家の展覧会を沢山やっている。例えばいま、すごく人気がある画家・高島野十郎(1890~1975)は、ずっと埋もれていたんですけれど、デビュー直後の個展をここでやっているんですよね。棟方志功(1903~75)もあまり評価されていない時代に個展をやっていたり、バウハウスに留学した山脇道子(1910~2000)の展覧会もやってる。けっこうとんがっているんですよね。”

武田砂鉄とナカムラクニオが語る、資生堂ギャラリー100年の歴史とこれから

新しい作家の発掘の場でもあったし、作家が繋がっていくサロンとも機能していたように解釈できる。また、福原は大小200本以上、文字数145万字以上の文章を残している。非常に熱心に言葉を通して社会と対話していることが伺える。今でも、多様な人々と対話を繰り返しており、対話的創造の文化は企業文化として定着しいているように感じられる。

ちなみに、ギャラリー開設100周年を記念して、会場は英国の建築家・現代アーティスト集団のアセンブルが会場設営している。加えて、アセンブルが来日し、ギャラリー内で陶芸ワークショップを実施し、益子に行って焼いて会場に戻って展示しなおすという信じられないイベントを開催している。彼らとコラボレーションが始まったのは、福原信三の社会創造的な共通点を見出したからとのこと。企画された学芸員は本当に凄い…

そういった意味で、企業のデザイナーは自分の創作を語り、社会と対話をしていく必要性があるように思えてくる。しかし、「創る」人はなかなか言葉にすることが難しい。安っぽい言葉でその意味を語るのは逆効果だ。僕はデザインという行為を言葉にすることで粘り強く、継続的に探究を深めていく「探究的デザイン」というのを学生たちと卒業研究でお願いしている。こういったことが企業のデザイナーにも求められているのではないだろうか。

市民の詩人性が
社会の美意識を作っていく

そしてもう一つ、福原信三は特定の芸術家だけに閉じた”ハイアート”の世界を作りたかったのではなく、より多くの人たちが表現するということで、美意識のある社会文化を目指していたように感じられる。

福原は写真家として様々な作品を撮っているが、当時は芸術作品として一般的ではなかった。福原信三は、写真芸術社を起こし、『写真芸術』を発刊したり、当時の日本のアマチュア写真家たちを代表する「日本写真会」の会長も務めた。そしてこのように述べている。

写真の内容は(中略)子供にもできるし、民衆芸術として喜ばれるという事、そうして芸術としては、花や小鳥に話しかける子供や詩人がいい作品を拵える。

福原信三

この「民衆芸術」という言葉にあるように、この当時は民衆による美や芸術の実践が叫ばれた時代にあったように感じられるのだけど、どうなのだろう?歴史に詳しい人に教えて欲しい。

例えば、1918年には農民美術運動が始まっている。農民美術運動とは、農閑期の農民にものづくりの方法を教え、農民生活の向上と美的創造力の両者を追い求めるもの。西洋画家の山本鼎(やまもとかなえ)によって始まった。専修大学の上平先生のこちらの記事がわかりやすい

また、1925年には民芸運動が本格化した。柳宗悦は民衆の用いる日常品の美しさ着目し、無名の職人たちによる民衆的工芸を初めて『民藝』と名づけた。

そして、福原信三は民衆が芸術文化に寄与する可能性を、俳句や和歌の文化に見出そうとしている。

写真芸術は詩人である日本人によって初めて芸術的に生かされると思うのであります。

福原信三

いいかえると、日本人は生れながらにして詩人であるといわれますのは、和歌、俳句を以て、此美しい自然を讃美せざるを得なかったからであると思います。

福原信三

現代だって、日本はブログやSNSなどに、本当に細かな自分の私情を綴っている。サービスを開始させたアメリカ人から見れば、「眠い」とか「辛い」しか呟かないとか毎日のようにラーメンの画像をアップするような日本人のSNSの使い方は不思議に思うらしい。でも、これも日本人の詩人性の現れなのかもしれない。

謝辞

資生堂さんとのプロジェクトの詳細についてはここでは言えないが、僕がこのプロジェクトに関わったきっかけは、資生堂のクリエイティブ本部の石井美加さんとの出会いだった。以来、資生堂の企業文化について色々と教えていただいた。また、とても美しいデザインを作られる同本部の信藤洋二さんをはじめデザイナーの方4名とも創るという視点から意見交換をさせていただいた。

そして、アドバイザーの安西洋之さんは、常に「文化」や「文脈」の視点から問を投げかける様子は、その語り方も含めて、非常に勉強になった。この場を借りて、御礼申し上げます。