Visual Facilitation Forum 2017 オープニングトーク

2017年10月22日開催のビジュアルファシリテーションフォーラム にてオープニングトークをさせていただきました。発表原稿と振り返りをここに掲載します。

対話と共創の場における視覚化

近年、人の発話を視覚的に記録することで対話や共創の場、学びの場などを支援する取り組みが増えています。このような視覚化を行う実践者(ビジュアルプラクティショナー)は、急速に活躍の場を広げています。対話の視覚化を専門とする企業も国内外に生まれており、企業内における視覚的な会議の実践するための研修も増えています。

視覚化が実践される場は、地域における街づくり、新しい商品の開発、組織の未来を語る場、学校やコミュニティーにおける学びの場など広がり続けています。その結果、ビジュアルファシリテーション、グラフィックレコーディング、リアルタイムドキュメンテーション、リアルタイムビデオなど目的や場に応じた様々な手法が創出されてきました。

このような社会の変化に通底するものは、対話と共創の文化の浸透です。

従来のコミュニケーションの手法では、専門性や職能が異なる部署を超えて共に創造していくことは、なかなか困難なものです。また、組織やセクターの壁を超えて、利害関係の調整だけではなく何かを協創していくことも容易ではありません。対話と共創の場における視覚化はこのような難しさを乗り越えるために生まれてきた手法とも言えるでしょう。

少しだけ私たちがビジュアルファシリテーションに携わった事例についてご紹介したいと思います。

1つ目は、研究組織におけるビジュアルファシリテーションの実験です。ある組織内の研究者自身に等角投影図を用いた視覚化の手法を教え、自ら研究を視覚化した上で、研究のつながりを視覚的に接続させ、同じ部署内、そして組織全体へと対象を広げて、ボトムアップで組織の活動を再認識する取り組みを行いました。専門性の高い分野の相互理解に視覚化が大きな意味を持つことがわかりました。詳しくはdiagram.picsにてプログラムなどを公開しておりますのでご覧ください。

2つ目は、政府の会議のビジュアルファシリテーション実験です。有識者による会議では、オンライン上で同期されるノートアプリケーションを用いて有識者自身が描きながら議論を深める取り組み、ジャーナリズムを専攻する学生が発話をテキスト化し、デザインする学生がそれらを視覚的に構造化してアジェンダを浮かび上がらせる取り組み、数時間の会議をA4サイズ一枚のインフォグラフィックにまとめるなどの取り組みをしてきました。

本日は、より実践的な取り組みをされている方々が登壇されます。具体的な実践事例や方法論につきまして、これからのプログラムにご期待ください。

人類の視覚化の歴史から
私たちが学べることとは何か

ところで、私たちはなぜ視覚化を求めるのでしょう。人類は古来より曼荼羅や系統樹など、様々な図像=ダイアグラムを描き、複雑な関係性を視覚化し、知や概念を他者と共有してきました。例えば、西洋では、樹木をメタファーとした図像化を行ってきました。このルイ家の家系図に見られるように1500年頃には家系図を描くことが多かったようです。

この図は修道士が描いた図版で左側が美徳の樹、右側が悪徳の樹となっており道徳の視覚化が行われています。これは、進化学者エルンスト・ヘッケルによって1874年に描かれた生物時空系統樹です。下に原始的な仮想単細胞生物(Moneren)を根として、一番上には人(Man)が記述されています。より、体系的な知識を図像化する時代に突入したと言えるでしょう。

また、1700年代後半には、ウィリアム・プレイフェアにより某グラフや円グラフが開発されデータの視覚化が本格化し始めました。

特筆すべきは、インフォグラフィックなどの領域において多大な功績を残したオーストリアの社会学者でもあり政治家でもあるオットーノイラートの取り組みです。ノイラートは世界の状況を視覚化するプロジェクトをはじめました。その成果の一つが、特定の国の言語に頼らない絵文字、つまりピクトグラムの開発です。その背景には、他民族で他言語が飛び交う多様性が高い自由な町であったウィーンの街が、敗戦によって、経済的に困窮し民族主義が強まり亀裂が深まったことにありました。オットーノイラートはこう言います。「言葉は人と人を分け、絵は人と人をつなげると」

以上のような歴史から学べることは、人は古くから知識を図像化してきたという事実以上に、人は時代の要請に応じて図像化の手法を絶えず開発し、社会に実装し続けてきたということでしょう。

 

「描く」ことと「分かる」ことは
どのように繋がっているのか

さて、視覚化すると人は「分かりやすくなる」と良く言いますが、これはどのようなことなのでしょう。それは、「分かる」の語源が「分ける」であることが示すように、個々に点在する情報そのものを認知した後に、「分ける」ことや「繋げる」ことによって情報に意味や解釈をあたえることが「分かる」ことに繋がると考えられます。

デザイン研究者の須永剛司先生はこのように表現しています。

「学び」を知ることと「デザイン」を行うことは、どうやらメビウスの輪のように、もともとつながっていたのかもしれないというイメージが浮かんでくる。(中略) 輪の上では境目のない「学び」と「デザイン」を走り抜けることができる。走っているメンバーには、学びとデザイン、つまり「知ること」と「行うこと」が、もともとひとまとまりの行為であったことが身をもって感じられたに違いない。 

/ 須永剛司, 1996, 現代デザインを学ぶ人のために, 編集: 島田厚, 世界思想社, P144-145

例えばリンゴのデッサンを上手に描こうとした時、リンゴの立体的な様子から、ヘタの部分のくぼみ、皮の光沢、さらに中身の水々しい様子までを理解しなければ、上手に描くことができません。つまり描くことと、その対象について知ることは同時に行われていると言えます。

これは、哲学者ジョン・デューイ(1859-1952)の「為すことによって学ぶ(Learning by Doing)」という言葉にも通じたものでもあるかもしれませんし、中国の明の時代の陽明学における知行合一(ちぎょうごういつ)つまり、知ることと行うことが分離できないという考え方にも通じるものかもしれません。

手を動かして描くと言う主体的で身体的な編集作業が「分かる」ことに対して大きな作用を持っていると考えられます。そのグラフィッカーが実践する「分かる」が他者に伝搬していくことが視覚化の作用と言えるでしょう。

対話の視覚化が生み出す
場と人の変化

人類の対話の歴史と記録は大きな関係を持っていると言えます。例えば、紀元前63年にはローマの統治機関である元老院での発言が鉄筆で記されたろう板が残されています。

日本の速記は明治維新後の自由民権運動や、国会開設がきっかけとなって普及したと言われています。速記者の席の位置がその重要性を物語っています。

1970年代頃には、アメリカの住民参加のWSや非営利組織の広まりによって、議論を模造紙に描いて共有する手法が普及してきました。一般の市民が議論に参加し、議論の全体を俯瞰し、記憶を共有化することが求められるようになったのでしょう。

つまり、人と人が対話して何かを決定する場においては、発話が記録され視覚化されたきたとも言えます。

一方で、対話や共創の場における視覚化の価値は、記録対話の場や人を変容させることにあるでしょう。グラフィックレコーダーの清水淳子氏はこのように述べています。

グラフィックレコーダーが生み出している価値は、議論を美しく整理したグラフィックだけではありません。(中略)そのグラフィックによって変化した参加者の関係性や思考に価値があります。

/清水淳子, 2017, 議論を可視化するグラフィックレコーディングの教科書, ビー・エヌ・エヌ新社, P146

グラフィックレコードを媒介として参加者の理解や発話、そして対話の振り返りなど人や場の変化を生み出すことに、大きな意味があるのではないでしょうか。

グラフィックファシリテーターのシベットは参加者が視覚化に参加するためのプロセスを以下のように示しています。

「Listen(聴く)」「Visualize(書く・描く)」「See!(見て!)」「Talk(話す)」というサイクルを繰り返すことにより参加者の興味を引き出し、参加度を高めることができる。
/ デビッド・シベットSibbet David, 2013, ビジュアル・ミーティング, 朝日新聞出版, P87

今日は様々な視覚化が実践されます。ぜひ、主体的にご参加ください。

ビジュアルファシリテーションがデザインに与える意味

ところで、グラフィックデザインの観点から見ると、対話や共創の場における視覚化はどのように解釈できるのでしょうか。現代のビジュアルデザインは企業組織のブランディングや商品の販売促進を目的に、急速に発展してきました。また、それらを担う職業人の育成のための環境や手法も成熟してきたと言えるでしょう。

一方、対話や共創の場における視覚化の実践は、ビジュアルコミュニケーションの萌芽的領域といえますし、ビジュアルコミュニケーションが生み出す新たな意味とも捉えることができるかもしれません。先の須永先生はこのように指摘しています。

(「学び」を知ることと「デザイン」を行うこと)そのメビウスの輪が、これからの時代のデザインという活動がもつであろう、役割とその姿を示唆しているように思われてならない。それは、デザインの活動とそこでの思考方法が当たり前にもっている、「行うことを通して知る」というプロセスを、デザイン以外の様々な分野にトランスファーしてゆくことである。

「かたち」を作るデザインの仕事は、良い「かたち」を社会に提供するだけではない。今後、「かたち」を作るプロセスそのものを広く社会活動に提供するように拡張していくことがデザインの役割となっていくのではないだろうか。 [須永剛司 1996]

まさに、ビジュアルファシリテーションという領域は、この「かたち」を作るプロセスによって生まれる「知る」という現象を、対話の場にもたらしたものと捉えることができるかもしれません。一般的にグラフィックデザインは完成度の高い精緻な表現が求められることが一般的です、しかし、ここにおける表現はその場で生まれる知を捕獲して即座に表現し、他者が参加していく余白がある表現が求められる傾向にあります。そう考えると、視覚的な実践とはデザイナーだけが担うものではなく、様々な人々(当事者)によって実践されるものであるように感じられます。

視覚化の実践者の省察的な学び

私たちは、このような実践家がこれまでの活動を振り返り、実践の中で生成された知を省察、概念化し、それらを他の実践者と共有し、新しいビジュアルファシリテーションの手法を開発していく場の必要性を感じ、このようなフォーラムを開催することになりました。わたしたちは一体、何をしてきたのか、社会に対してどのような意味を生成してきたのか、省察的に問う場がこのフォーラムの意味ではないかと私は考えています。

さいごに

本日は様々なセッションが開催されます。視覚化の効果を知りたいと思っている人や、自ら試したいと思っている人、活躍してきた方、それぞれにとって学び多き機会になることを願っております。


フォーラムを終えて

本当に発見の多い、素晴らしい会でした。 特に、今回のイベントで強く感じたのは、視覚化がもたらす参加意識の効果でした。 会場では、常葉大学のグラフィックレコーディングチームはもちろん、色々な人たちが自分のノートに、或いは白いダンボールに描いて参加者同士がバトンのように描いていましたが、そういった「描くことによる参加」ことが、会場の良い熱気に繋がっていることに気がつきました。

ディスカッションの時間には、「私たちはなぜ描くのか、描きたいのか」そして「社会はそれで変わるのか」という話がよく聞かれました。私にとって、それはアーティストが常に自分たちに問いかけている言葉と近いように感じました。人の発話を描くということは、人を発話をモチーフに描く作品作りとも捉えることができるように見えたのです。

ファシリテーションやハーべスティングという成果を少しだけ脇に置いて考えたときに(もちろん、それがとても大切なのですが)、主観的に描くこと、下手でもいいから描くこと、自己を投影して描いていくこと、楽しく夢中になって描いていくこと、それが誰かに見られるかもしれないし見られないかもしれないこと。 それが参加意識の起点となるように感じました。

参加してくださった皆様、登壇者の皆様そして仕事の合間に準備を重ね、当日の進行をされていた最高にクールな実行メンバーの皆様、どうもありがとうございました。